「私と河合塾」-OB・OGが語る河合塾-: Vol.7 (2008年11月公開)
- 教育・研究者
- 大学受験科
「ガリ勉は格好悪い」と斜に構えていた私に<br />周りの目を気にすることなく一生懸命に<br />勉強することの尊さを教えてくれました。
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慶應義塾大学大学院経営管理研究学科(慶應ビジネススクール)
准教授小幡 績さん
- 出身コース
- 大学受験科
「優等生」から高校入学後、いきなり成績最下位に
・・どのような少年時代を過ごされたのですか。
幼稚園に入る前から、童話を読むのが好きな子どもでした。当時はまだ珍しかった「お受験」も経験し、幼稚園の頃から池袋の塾に通いました。もっとも、当然のことながら、私自身には受験の意識はなく、帰りに西武百貨店で「お子様ランチ」を食べられることが楽しみで通っていたようなものです(笑)。
千葉大附属小学校に入学後、すぐに学力テストが行われ、トップの成績を収めることができました。この小学校は、生徒も保護者も「勉強が大切」という意識が高く、おのずとクラスの中心的な存在になっていきました。とはいえ、私の両親は、外で友だちと遊ぶことが一番大事という方針で、勉強を強制されることはありませんでした。恵まれた小学生時代だったと思いますが、家庭学習の習慣は身につかないままで、後に本格的な受験勉強をしなければならなくなってからツケを払うことになりました(笑)。
・・中学受験はされたのですか。
学校の勉強だけでは物足りなくなり、小学校4年生から学習塾に通いました。難問を解くのはとても楽しかったし、成績がトップになると、授業料が免除になり、そのお金で家族旅行に出かけることができるので、それがまた励みになって、頑張って勉強していました。でも、結局、中学受験はしませんでした。それほど深い意味はなく、クラスに好きな女の子がいたので、一緒に附属中学校に進みたいと考えたのです(笑)。
高校入試でも、開成高校にも合格したのですが、やはり共学校に行きたいという思いが強く、学芸大附属高校に決めました。
・・高校での成績はどうだったのですか。
中学から続けていたバスケット部に入部し、練習に明け暮れていましたし、ほとんど勉強していなかったので、高校の最初の定期試験で、いきなり最下位になりました。でも、それが逆に心地よかったのですね。自分で言うのも何ですが、それまでの私は明朗快活で、勉強もスポーツも得意な、いわゆる優等生でした。初めて成績下位になり、何か開放されたような気持ちがしたものです。2年生の途中までそんな状態でしたから、さすがに両親が心配して、「テストで学年の平均点をクリアできたら、好きなものを買ってあげる」と、誘い水をかけてきました。すると、次のテストでは学年で中位になりました。味をしめた両親に「ならば、今度は100番以内になったら、お小遣いをあげる」と言われ、これまたすぐにクリアしました。親からは、「お前はいったい何なんだ」と言われましたが(笑)。
塾生同士の仲間意識が強く、OBとの縦のつながりまである!
・・成績がアップした要因は何だったのですか。
自分なりに成績が落ちた理由を省みて、高校から塾に通わなくなったことが原因だと感じました。私は学校の勉強よりも塾の勉強に興味を持つタイプだったと気づいたのです。そこで、高校2年生になってから、部活が休みの火曜日に、河合塾で、最も苦手だった英語の講座を受講することにしました。そして、高校3年生の時、地理の故権田雅幸先生に出会ったことが、私にとって、人生の転機になったといっても過言ではありません。
・・どんな先生だったのですか。
権田先生は、あらゆる学生に愛情を注いでくださる方で、まずその人柄に感銘を受けました。当時、GFCという先生を囲むサークルのようなものがあり、私も参加していました。私は、河合塾の最大の魅力は、塾生同士の仲間意識が強いことにあると思っています。しかも、GFCには代々のOBもよく顔を出していました。年1回、2泊3日の旅行も開催しており、私たちの時は、青函連絡船がなくなる年だったので、皆で乗船しに行きました。こんなケースは珍しいということで、『サンデー毎日』の記者も同行され、同誌の巻頭グラビアを飾りました。その記者の方は「ライバルであり、最終的には敵であるはずなのに、この仲間意識はすごい。加えて、縦のつながりまであるなんて、他の予備校では考えられない」と、驚いておられました。
・・東大をめざそうと思われたきっかけは何だったのですか。
当時、毎年のように入試システムが激変しており、教育制度に大きな疑問を感じるようになりました。ならば、自分の手で教育行政を変えるしかない。役人になるのならば、やはり東大へという意識が生まれたのです。
でも、結局、合格までに2浪することになってしまいました。ショックだったのは、1浪の時に不合格になった時のことです。それまで大学のブランド名にそれほどのこだわりを持っていたつもりはなかったのに、東大に落ちたことで心が痛んでいる自分に、何て小さな人間なんだろうとショックを受けたのです。けれども、時間が経ってもどうもその痛みは解消されそうにありません。一生そのコンプレックスにとらわれ続けるぐらいなら、合格するしかない。そう一念発起して、2浪目の時は必死で勉強し、合格することができました。
東大の授業は皆勤を通し首席で卒業
・・河合塾で学んだことが、その後の人生で役立っていると感じられることはありますか。
受験生時代は、自分の人生を初めて真剣に問う時期です。でも、多感な時期でもあるだけに、一歩間違うととんでもない方向に逸れてしまう危険性もあります。私もそうでした。ガリ勉になりたくなくて、嫌いではない勉強を避けていたのです。
受験をゲームとして捉えていた私でしたが、権田先生の論理的思考と本物の教育に感動を覚え、世の中の事を論理的に、自分の頭で考えてみる姿勢を身につけました。権田先生に人生を学んだのです。普通に自分のやりたいことを素直にすればいい。自分の成し遂げたいことに向って真っ直ぐ進めばいいと。周りの目やしがらみから解き放たれました。
国の政策に貢献したいという自分の使命に立ち返り、2浪目は受験勉強もコツコツやりましたし、東大入学後は、専門科目は皆勤を通し、「オール優」の成績をとり、首席で卒業しました。もともと学問は好きだったので、勉強するのは楽しかったですし、目標が明確だったので、思いっきり遊びたいとも思いませんでした。
・・今後の目標をお聞かせください。
学生時代に読んだ日経新聞に「日本の政策がよくない元凶は大蔵省(現財務省)だ。日本には本物の政策シンクタンクがなく、官僚がその代わりを担っていることが問題だ。独立したシンクタンクを作るべきだ」と書かれていました。けれども、東大で所属したゼミの先輩で、大蔵省に入省した方々を見ると、とても優秀な人ばかりです。では何が問題なのか。まずは内側から検証したいと思い、私も大蔵省に入りました。そのうえで、ハーバードの大学院に留学。日本の学者の多くは、学問研究の片手間に現実の政策を研究している人が多いことに気づき、ならば自分で政策研究に専念する学者になりたいと思い、大学に奉職することを決めました。将来は、自分の手で、本格的な政策シンクタンクを作りあげることが目標です。
先ほど申し上げたように、東大をめざしたきっかけは、教育制度を改善したいという思いがあったわけですが、その後も私の志向は、多少立場は変わっても、政策に貢献したいということで終始一貫しているわけです。2回目の留学の時、長期にわたるため、大蔵省を辞めなければならないなど、いくつかのターニングポイントはあったのですが、選択に迷いはありませんでした。職場とのしがらみも、「もったいない」という周りの目も関係ない。自分の思いに素直に、一生懸命頑張ればいい。そんな心の境地に達することができたのは、河合塾で権田先生に出会えたおかげだと感謝しています。
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小幡 績(Seki Obata)
1967年千葉県生まれ。1992年東京大学経済学部首席卒業、大蔵省(現財務省)入省。1999大蔵省退職。2001年ハーバード大学で経済学博士(Ph.D.)を取得。帰国後、一橋経済研究所専任講師を経て、2003年より慶應大学大学院経営管理研究学科(慶應ビジネススクール)准教授。専門は行動ファイナンスとコーポレートガバナンス。著書に『ネット株の心理学』『すべての経済はバブルに通じる』など。
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