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「私と河合塾」-OB・OGが語る河合塾-: Vol.39 (2011年9月公開)

  • デザイン・アート関連
  • 河合塾美術研究所
絵本作家 あだち なみさん

河合塾の授業で取り組んだことが<br />現在のクリエイティブな活動に<br />つながっていることを実感しています

  • 絵本作家

    あだち なみさん

    出身コース
    河合塾美術研究所

家の中にモノづくりの雰囲気があり、自然と絵や工作に興味が生まれました

・・美術に興味を持ったのは、いつ頃からでしょうか。

幼稚園に入る前から、広告紙の裏に絵を描いていました。青いボールペンを使っていたのは記憶していますが、あまりにも幼い頃のことなので、何を描いていたのかは覚えていません(笑)。父が建築パースを描く仕事で、よく自宅でも作業していました。母も洋裁をしており、家の中にモノづくりの雰囲気があったことから、自然と絵や工作に興味を持つようになった気がします。

小学校2年生のとき、絵画コンクールで金賞を受賞。ほめられたことで、さらに絵を描くことが好きになりました。けれども、図工の時間は週に1回だけ。体育の時間はもっとたくさんあるうえに、運動会まであって、スポーツが得意な人は活躍できるのに、私が得意技を発揮できる場は少ないなと、とても不満でした(笑)。

・・中学校、高校では美術部だったのですか。

いえ、中学校は運動部に入ることが義務づけられていたので、バトミントン部に入りました。高校では、袴姿にあこがれて、弓道部に入部。初段を取得しました。

・・美術系大学への進学を決めたのは、いつ頃ですか。

将来は、小さい頃から好きだったモノづくりの世界に進みたい。そのために、大学では美術の勉強がしたいという思いは、漠然とながらも、ずっと持ち続けていました。けれども、私が通っていたのは、地元の進学校(県立多治見高校)で、勉強に関してはかなりハードなカリキュラムになっていました。毎日のように、7時限目の補習があり、宿題もたくさん出ました。朝テストもあったので、始発電車に乗って通学。満点を取るまで追試を受け続ける決まりになっていました。それなりに上位の成績を収めてはいたのですが、このままでいいのかという迷いが生まれていきました。美術系大学に合格するには、学科試験の勉強だけではなく、実技対策も必要になるからです。そこで、高校2年生から、放課後、河合塾美術研究所に通うことにしました。

・・河合塾美術研究所を選んだ理由は何ですか。

高校の美術の先生に相談したところ、河合塾美術研究所を勧められました。2年生のときは週3日、3年生では週5日通いました。

「同じ言葉で話せる人がいる」幸せを感じた河合塾美術研究所

・・河合塾美術研究所の印象はいかがでしたか。

「同じ言葉で話せる人がいる」幸せを感じましたね。

・・美術の専門用語が通じるということですか。

というよりも、感覚の問題です。それまで「少し変な子」という感じで扱われていましたから(笑)。できるだけ周りから浮かないように気をつけて、学校生活を送っていたのですが、河合塾美術研究所では、その「変」なことが当たり前のこととして受け入れてもらえ、とても心地よかったのです。皆、好きなことが一緒なので、ずっとモノづくりに関する話で盛り上がっていました。そもそも、大好きな絵を描くこと自体が勉強になるなんて、こんな素晴らしいことはありません(笑)。受験勉強は辛いものというのが相場なのでしょうが、私にとっては楽しい日々だったのです。後から、両親は「あの当時、まさに『水を得た魚』のようだった」と言っていました(笑)。

・・印象に残っている授業はありますか。

平面構成、デッサン、立体物……。どの授業も楽しかったですね。1日3時間の授業で、与えられた課題が終わらないときには、講評会(作品を並べて、全員の前で先生が講評する会)に間に合わせるために、ほぼ毎日自宅に持ち帰って取り組みました。高校で課される宿題もやらなければいけないので、1日2~3時間の睡眠時間で頑張りました。

最も強烈に印象に残っているのが、夏期講習のデッサンです。私たちに刺激を与えるために、OBの大学生も一緒に参加していました。あるとき、OBの後ろでデッサンしていたのですが、最初は何となくぼんやりして見えていたOBの絵が、突然ある瞬間から、まるでスポットライトが当たったかのように飛び出してきた感じがしたのです。感動して、そのOBにアドバイスしてもらったことで、デッサン力を伸ばすことができました。

「多摩美実技模試」でトップの成績を収めたことが自信に

・・高校3年次の入試の結果はいかがでしたか。

多摩美術大学を志望していたのですが、両親が大反対。地元の大学への進学を厳命されました。そこで、地元の芸術系大学を受験しました。ところが、入試の1週間前に階段から落ちて、右手の靱帯を伸ばしてしまったのです。ギブスで固めて入試に臨みましたが、実力を発揮することはできず不合格。地元私立大の他学部には合格していたのですが、悔いを残したくないという気持ちが強く、再チャレンジを決意し、まずは両親を説得。高校卒業後、さらに1年間、河合塾美術研究所に通いました。

・・その1年間はいかがでしたか。

朝から夜まで課題に取り組みましたから、着実にレベルアップを図ることができました。河合塾美術研究所では、実技模試も実施しており、積極的に受けました。本番入試と同様に、出題傾向に類似した課題が与えられ、制限時間内に作品を仕上げる模試です。絶対に誰にも負けたくないという思いがあり、相当燃えて取り組んでいました(笑)。そんな意気込みもあってか、「多摩美実技模試」でトップの成績を収めることができ、大きな自信になりました。

・・1年後、見事に多摩美術大学に合格されたわけですが、大学時代の思い出を聞かせてください。

多摩美術大学は、課題が多く、忙しいと聞いていたのですが、私にとってはまったく苦になりませんでした。課題には、自分なりの解釈で、好きなように取り組むことができました。そんな自由さ、懐の深さが感じられる大学でした。

ロングセラー『くまのがっこう』をはじめ約40冊の絵本を制作

・・卒業後の経歴を教えてください。

「ジャッキーのはつこい」 絵・あだち なみ/文 ・あいはら ひろゆき ブロンズ新社 ©BANDAI

「ジャッキーのはつこい」 絵・あだち なみ/文 ・あいはら ひろゆき ブロンズ新社 ©BANDAI

大学時代、自分の好きなものをつくっている会社に就職したいという思いがありました。私は、子どもの頃、着せ替え人形のジェニーちゃんが好きだったことから、株式会社タカラに入社。提携しているシュタイフの日本向け雑貨のデザインを担当しました。約1年後、いったんフリーの経験を経て、株式会社バンダイから新しい部署が発足したということで、声をかけてもらい、スタッフの一員に加わりました。約2年間、絵本のグッズデザインを手がける中で、最初に描いたのが『くまのがっこう』です。

・・『くまのがっこう』はロングセラーになり、その後、約40冊の絵本をつくっていらっしゃいますが、あだちさんなりのこだわりはありますか。

私にとって、絵本とは、お話と絵だけが主役ではなく、表紙の雰囲気、ページをめくったときのワクワク感、持ったときの手触りなどを含めた、さまざまな要素が重要になると考えています。そうした絵本づくり全体に関わっていくことが目標です。つくり手の愛情が醸し出され、手にとった人が、いつまでも大切にしたくなるような絵本をつくっていきたいですね。

それから、私は、絵本以外に、雑貨や生地のデザインも手がけています。今後も、特定のジャンルにこだわらず、すべてものづくりとして幅を広げていきたいと思っています。

小学生時代から、プロ仕様の道具に慣れ親しむ

・・河合塾美術研究所で学んだことが、現在の活動に役立っている面はありますか。

河合塾美術研究所で身につけたデッサン力や、集中してモノをつくる姿勢、周りの友人たちに刺激を受けて磨いた感性などは、現在の仕事のベースになっています。また、モノづくりの第一線で活躍されている先生方に教えていただいたことも貴重でした。授業中のわずか一言のアドバイスが、とても的確で、しかも、単に受験のためだけでなく、デザインの本質をつくようなものだったのです。プロになった現在でも、時々連絡をとって、モノづくりの“同志”として、さまざまな相談に乗っていただいている先生もいます。

・・河合塾美術研究所の後輩に向けて、アドバイスをお願いします。

受験のために描くのではなく、1枚ずつ、自分の作品という思いを持つことが大切です。その思いがあれば、常に全力で取り組むことができ、その次にはもう一段階上の力を引き出すことができるようになります。私は、授業で取り組んだことが、現在のクリエイティブな活動にもつながっていると実感していますから、後輩の皆さんにも、ぜひ日々の授業を大切にして、頑張ってほしいですね。

・・最後に、ご自身の経験を踏まえて、保護者の方々へのメッセージをお願いします。

私の両親は、小学生の頃から、絵の具、絵筆、彫刻刀など、プロが使う道具を揃えてくれました。絵筆は、現在でも同じメーカーのものを使っています。皆と違うものを使っていることが嫌だった時期もありますが(笑)、子どもに早めに“本物”に慣れ親しむ経験をさせることも、子どもの才能を引き出す1つの方法だという気がします。

Profile

あだち なみ (Nami Adachi)

あだち なみ(Nami Adachi)

1974年岐阜県生まれ。県立多治見高校出身。高校2年次より河合塾美術研究所名古屋校基礎科に通う。高校卒業後、河合塾美術研究所名古屋校本科を経て、1994年多摩美術大学美術学部グラフィックデザイン学科入学。卒業後、玩具メーカーで絵本制作に携わり、そこで『くまのがっこう』(ブロンズ新社)を描く。2003年から絵本作家としてフリーの活動を開始する。ロングセラーの『くまのがっこう』シリーズをはじめとした絵本制作を中心に、雑貨のデザインなどにも活動の幅を広げている。

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