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カンボジア教育支援活動現地支援報告(2011年11月まで)

※以降はカンボジア通信に掲載

現地レポート「発展するカンボジア」

「発展するカンボジア」

 内戦終結後、ズタズタに傷ついたカンボジアとその人々は、多くの国の援助の下で急速に回復しつつあります。道路、電気などのインフラは、首都プノンペンでは充実し、郡部の州でも電気が使えるようになっています。友好学園のあるプレイベン州はベトナムと隣接している関係で、ベトナムより電気が通じています。ただ、電気料金は日本より若干安い(物価は10倍以上の差があるのに)程度なので、必要最小限の使い方となっています。

 カンボジアの経済成長率は5%を超え、東南アジアでも進展著しい国のひとつとなっています。プノンペンでは物価・地価が高騰する反面、収入がその上昇に伴わず、決して豊かとは言えない状況です。プノンペンでは外国資本の工場や企業がどんどん入りはじめ(日本企業も含む)、企業の経営陣や国の官僚と一般市民との収入格差が大きくなり、また国全体では都市部の企業従事者と郡部の農業従事者との収入格差が大きく、貧富の差という問題が出てきています。それでも、年々暮らしが良くなっていることが実感され、人々は明るい空気に満たされているのが現状です。

「カンボジア-日本友好学園」

 インフラの整備に伴い、いまやプノンペンから2時間半で結ばれるようになったプレイベン州のベトナムに近いところに、カンボジア-日本友好学園があります。中学・高校と一貫教育がなされていますが、中学と高校にはそれぞれ試験にパスした生徒しか通うことができません。農家の子供が大変多いのですが、生活が厳しいにも関わらず、家族は子供に将来を託し、友好学園に通わせています。子供たちもそのような家族の思いを受けて、厳しい環境ながらも懸命に勉強に励んでいます。

 カンボジアでの就学率は、中学で50%、高校では20%程度しかありません。たとえ学校に行っても教科書が不足しており、2人に1冊しか行き届かないなどの状況になっています。友好学園でも状況は同じですが、教科書は大切に使われ、次の学年でも使えるように代々受け継がれながら使用しています。

 数年前から、郡部の学校では行われていない「音楽」の授業が始められ、昨年のカンボジア全土での音楽コンクールでは1等をとりました。また優秀な先生方の熱意ある指導により、数学でカンボジアでのトップ生を出すなど着実な成果を出しています。

映像で見るカンボジア

<カンボジアについて知ろう>

カンボジアの地理的位置と支援先「カンボジア-日本友好学園」のあるプレイベン州についての説明です。

<カンボジアの歴史を知る>

カンボジアの歴史についての説明です。特に内戦時代の理解を深めます。

<カンボジアの著しい発展>

内戦終結後、復興しつつあるカンボジアの現状についての説明です。

<カンボジア-日本友好学園>

支援先「カンボジア-日本友好学園」の状況や生徒たちの姿、授業風景などをまとめています。

<友好学園の実情>

友好学園の先生たちにインタビューしました。

写真で見るカンボジア

プノンペン市内の様子

王宮<王宮>
カンボジア王国のシンボル的存在

セントラル・マーケット<セントラル・マーケット>
高級品から日用雑貨まで揃う市民の台所

マーケットの内部<マーケットの内部>
経済成長とともにモノが潤沢に揃ってきている。

きれいに整備された道路<きれいに整備された道路>
インフラの整備は年々整い、自動車の台数も増加。

プレイベン州の様子

舗装された幹線道路<舗装された幹線道路>
各国ODAのおかげで道路はきれいに。電気も通じている。

道沿いのショップ<道沿いのショップ>
地方(田舎)の店はトタン屋根の掘っ立て小屋。

一般庶民の住宅<一般庶民の住宅>
地方(田舎)の住宅は未だに貧しい。

豪雨のあとの様子<豪雨のあとの様子>
雨季の豪雨で水が溢れ、住宅も水浸しの状態。

データで見るカンボジア

カンボジア基礎データ

 カンボジアは1953年にフランスから独立しましたが、それまでの植民地政策により"農業"に特化した経済活動(プランテーション)が行われてきました。独立後、厳しい内戦が繰り返され、多くの知識人が命を落とし、経済発展する礎も失うこととなり、1990年代までは国家を発展させる産業が育ってきませんでした。

 内戦が終結し平和が訪れ、各国の支援活動が本格的に入る1990年代末では、少しずつ外国資本による企業進出がなされ、工場で働くカンボジア国民の生活は徐々に良くなってきました。しかし、現在も"農業"が産業の中核になっていることは変わっていません。

 2000年代に入り、中国・韓国・米国・タイ・シンガポールなどに基盤を置く企業が、安い労働力を求めて進出しはじめ、第二次産業が大きくなりはじめ、繊維(衣料)の輸出がさらに国民の生活を豊かにし始めました。また、外国企業の進出により、外国人観光客の流入も増え、第三次産業としての観光が育ち始めました。元々、カンボジアはインドシナ半島で繁栄したアンコール王朝の中心であり、アンコール・ワットなどの観光資源は豊富です。また、カンボジアの海の玄関であるシアヌークビルは立地的に好環境であるため、輸出入の基地として今後益々栄えるでしょう。

 現在、プノンペン、シアヌークビルなどに"経済特区"が設定され、近年は日本企業が活発に進出しはじめています。また、首都プノンペンは地方からの人口流入や外国人の流入により急激に人口が増加しており、小売業などでも日本企業が進出しはじめています。日本企業は安い労働力と増大する商圏を、中国やベトナムからカンボジアなどに転換しはじめています。カンボジアは将来的に大変魅力ある国のひとつであると言えるでしょう。

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