2021年度JCERIレポート寄稿
「2032年の学びと大学入試」
安彦忠彦
(JCERI理事・名古屋大学名誉教授)
「2032年の学び」と「大学入試」に関する主な研究者の見解について(1/3)
このテーマに関する、5人の研究者の方からの意見を拝読したので、まず全体的な印象を要約的に述べさせていただく。
石井英真氏のお考えは、高校も大学のように、卒業論文などで学習の成果をまとめさせる「大きな修得主義」と、教育課程の柔軟化による社会活動の導入の促進、大学入試で留意すべきは「レディネス」であること等を説いている。また溝上慎一氏は「観点別学習評価」と「探究的な学習」が高校に大きなインパクトを与えるだろうと述べ、ICTの活用や校外における発展的学習を勧めるとともに、高校教育と大学入試は別物として直結させない見方を採っている。
この二人の方の高校教育の方向性は別として、中村高康氏は従来の教育社会学者の指摘してきた社会的文脈の複雑さや政策の評価の無さを指摘し、新しい方向性の実現に疑問を呈するとともに、大学入試は、制限付きで個別大学の入試を主体とするよう制度改革を行うべきだ、としている。西郡 大氏は逆に「政策主導」の入試改革から「大学主導」の改革へと、各大学の教育改革に合わせて行う大学側に、オンライン入試を含めた入試の主導権を移し、高校生と大学側との相互選択的なものにし、高校ではデータサイエンスや探究学習を履修させ、多様な層の大学入学者を求めるべきだとする。
白水 始氏は生来の人間の学習を全体的に捉え、生涯学習までも視野に入れた「学習科学」の研究に拠るべきことを主張し、大学入試に高度情報技術が使われると、教育データサイエンスの絶対視が起こり、コンテンツを教える従来の指導姿勢でコンピテンシー教育をしようとすることになる、と警鐘を鳴らしている。
どれも、一定の枠内で言えばもっともな見解であり、部分的には首肯できるものであるから、その方向で高校や大学の教員が実践を展開していけば何らかの効果が得られると思う。しかし、逆に言えば、JCERIから与えられたテーマが限定的であるがゆえに、どなたも部分的な視野での論にとどまっている。新しい用語や手法による主張についても、先達の理論との違いを明らかにしておきたい。私は、方向性や結論的なものを見出すために、各研究者の意見を参考にしながらも、より広い視野と根本的な問題を指摘して、国民一般にも、政策担当者にも、研究者にも、実践家にも、新規まき直しを図るべきことを提案する。
2032年の学びについて(2/3)
1.人間は不完全な存在である
今後の10年の人類の歩みがどうなって2032年を迎えるか、必ずしも明らかではない。みなICTやAIなど科学技術の進歩に目を奪われているが、人類史的に言えば、その進歩は「人類破滅の危機」を増幅・促進させる可能性のあるものである。言い換えれば、「明るい、光のある未来」があるというよりも、「危い、暗い影の強まっている未来」があるという見方の方がリアルであり、真実の未来なのではないだろうか。この事実は、教育界における「人間」の捉え方に、転換を迫るものであると言えよう。
第一に、近代以降の現代にいたる「楽観的人間観」に基づく教育・学習論はもう妥当しないので、その人間観の修正から始める必要がある。「学び」という大和言葉が流行しているが、英語ではみなlearningである。「学習」という用語を使わないのは、「学習」の語感には「受け身の学習」も含意されるが、「学び」は能動性しか意味しないからであろう。ただし、「学び」は語源的に「まねび=模倣」に由来するとのことであり、そのまま「完全な能動的学び=探究活動」を意味するわけではない。
大事なことは、人間は残念ながら「完全な存在」ではないから、何をしても「不完全で」「欠点を生む」可能姓があるということである。Agency(当事者意識・主体性)重視で、「学び」がどれほど主体的であっても、近代の「能力(自己)開発型」教育では甘いのである。むしろ「開発型」とともに「能力(自己)制御型」教育が主体とならねばならない。「知性の開発」とともに、「知性の制御」を図る「意志の強化」を促す教育が必要である。「意志」は育てなければ強くならない。「問題・矛盾・葛藤」が起きるのは、人間が不完全だからであり、それらから生まれる陰を解決しつつ歩まねばならないからである。「人間性=不完全な存在であることの教育」こそ、一層主要なものになる必要がある。
2.学習活動と教育
第二に、「学び」や「学習」が主たる活動で、「教育」はそれを健全な性質のもの、楽しいもの、少しでも陰を生まないものにする「補助的活動」と見るものでなければならない。私も人間を含む高等動物の学習は、まず「探索行動による記憶学習=探究学習」であり、生来能動的なものから始まるとともに、学習にはさまざまなものがあって、受動的なものから能動的なものまで何種類もあるので、学習の目的に応じて、使い分けることが必要だと考える。
そして、最終的には、学習者自身がそれを発達的に身に付けていき、最後には成人するまでに、自らの力で使い分けることができるようになることがめざされねばならない。「教育」は「学習者が主体として活動することができること=自立」を目的にして行われなければならない。いつまでも他者による「教育」に依存していては、「教育」とは言えない。その意味で「教育」は「自己否定的媒介活動」である。つまり「教育」は「その学習者を、自立に向けて力をつけさせることにより、最後には自らを不要とし、消滅させるような状態にすること」をめざす活動だといえる。この意味を表すのが「出藍の誉れ」という故事成語である。
第三に、「教育」の限界を知り、後は「教育以上の世界」を示すことが求められるようになる、ということである。「存在の所与性」を自覚させ、それに対する価値観・道徳性を考えねばならない。実際、人類の歴史を振り返り、現代の世界を省みれば、人間は自分から出てきたのではなく、前の世代から生み出された存在であり、宇宙を含めてすべての存在が自分から出てきたものではなく、何らかの他者によって与えられた、「所与のもの」であることに気付かされる。その意味では「所奪性」(関根清三)、つまり自分でない何者かによって自分の存在や生命が奪われても、それは仕方がないものであることを知らされる。
「教育」はそのことを前提にして行われるのであり、その中で「生き続けること」=「成長・発達を通して、一生涯、死が与えられるまで生きること」が求められているのである。この意味では、「自殺は他殺である」というのが私の考えであり、「教育」は「自殺を認める立場」からは容認できない。自分の命は自分で造ったものではなく、与えられたものだからである。
そう考えると、与えられた命を善・悪両面に用いる可能性があるので、可能な限り善なる面に用いるようにとの役割を果たすのが「教育」であろう。しかし、何をどこまでするのが善なのかを「完全」には決められない以上、人間の「教育」は不完全なものに終わらざるを得ない。この現実に私たちは日々直面しているではないか。どんな「教育」も人間自身が不完全な存在である限り完全なものはなく、人間も完全に善なる存在になることはありえない。ただし、その善なる存在へ向けて学習や自己教育をすることが求められている。
この観点から言えば、能力を引き出す「能力開発」の「教育」は必要だとしても、それ以上に、それを善なるものにどう生かすのかを決める、「道徳性・倫理性」の「教育」が重点的に行われねばならないことは明らかである。「能力がどれほど高くても、信用できる人でなければ誰も相手にしない」であろう。これは「人間性・人格性」の教育の問題である。
OECDの「Education2030プロジェクト」は、決して各国の公教育を規定するような強制力をもつものではないが、各国が自国の教育政策を決める際に参考にしてほしいと言っているものでもある。この意味で、日本政府はこれを非常に参考にしたい、それによってPISAの成績を国際的に見て上げたいと考えている。
しかし、これはまだPISAの問題に対応する「能力(コンピテンシー)」重視の考え方で、「資質」の方の人間性・人格性の方が軽視されていることは非常に問題である。相変わらず「経済的な豊かさ」を求め、「精神的な豊かさ」を軽視している印象をぬぐい切れない。「精神的な豊かさ」は「経済的な豊かさ」に左右されない。むしろ先に述べた「能力(自己)制御型」の、「謙虚な意志」を核にした教育こそWell-beingを与えるものではないのか、と思われるのである。
大学入試について(3/3)
今や大学入試は、それだけを改善すればよいというものではなくなった、と言える。学歴(学校歴)社会が現在のような大学入試を求めている限り、どのような改善でも役に立たない。しかし、大学入試は基本的に「大学」側に責任があるのだから、各大学がどういう方針を打ち出すかによって変えられないことはない。私も「高校卒業」と「大学入学」が同じレベルである必要はないと考えている。法律的にも「高校卒業」は校長の判定で決められるものであり、「中等教育修了」は職業高校等、進学校でなくても卒業は認められている。
そうだとすれば、仮に「高校卒業」が受験資格であっても、「大学入学」の水準がそれと同じである必要性はなく、その水準以下でも以上でもよい。各大学の入学者受入れ方針(アドミッション・ポリシー)によって決められるものである。そこで、大学は「生涯学習」機関として「入学」の方は年齢も学力も問わないことにするか、大学で学ぶ最低の学力さえあればよいとして、国語・数学・英語の3教科に絞ってよいと思う。むしろ「出口」たる「卒業」レベルを厳格にすることが望まれる。それによって「大学教育」の方を充実させることの方が重要である。学年制は副次的なものとし、完全な「単位制」を主とすることでよいと思う。
総じて、大学側は「入試」を楽にしたいとする傾向が強いが、大学進学率の上昇により、そうする限り入学者の学力に大きな幅が生じ、その多様性への対応を大学教育で行わねばならない。それが嫌ならもっと入試に力を入れ、時間と労力をかける覚悟をする必要がある。今までの入試に関わる中途半端な態度を改め、上述のどちらかに態度を決めるべきである。
安彦忠彦(あびこ・ただひこ)
東京都生まれ。1964年3月東京大学教育学部卒業。同大学大学院教育学研究科博士課程1年中退後、大阪大学、愛知教育大学、名古屋大学、早稲田大学を経て、2021年3月まで神奈川大学特別招聘教授。名古屋大学教育学部附属中・高等学校長、同大学教育学部長などを歴任。博士(教育学)。名古屋大学名誉教授。2005年2月より第3期中央教育審議会正委員(第6期まで)。専門はカリキュラム学(主に中等)を中心に教育方法・教育評価。
※所属・役職は2022年3月時点のもの