2021年度JCERIレポート制度改革の視点から高大接続の今後を考える~個別大学の自主性を尊重し、受験生に配慮した設計を
中村高康
(東京大学大学院教育学研究科)
教育改革の継続と方向性の問題(1/4)
2032年までに中等教育は変化するのか
大学入試改革が頓挫したことによって、元に戻るのではないかと言う人もいますが、これで終わりではないだろうというのが、私の認識です。もちろん、入試改革の柱と言われた「記述式」「英語民間試験の活用」「JAPAN e-Portfolio」が、実現に至らなかったことは事実です。けれども、その背後にある思想自体は生きていて、その後の改革の議論でも受け継がれているのです。
とくに、学習指導要領・指導要録が変わった影響は、非常に大きなものがあります。学習指導要領は、「主体的・対話的で深い学び」や、学力の3要素で貫くような形で構成されています。それから、最近では、「個別最適な学び」が強調され、導入が進みそうな勢いです。この学習指導要領の影響で、中等教育も変わっていくでしょう。
ただし、本当に求められる能力を養う方向に、うまく変わっていけるのか、危惧しています。私の著書『暴走する能力主義』で指摘したのは、空中戦のように、次々に新しい能力観が出てくるのは、先行き不透明な時代状況の中で、不安に駆られているからではないかということです。それでつい制度を弄り回してしまう。理念だけが走りすぎているとも感じます。理念先行でうまくいけばいいのですが、たとえば「ゆとり教育」の理念とともに総合的な学習の時間が登場したあとすぐに学力低下論が沸き起こり、そこから揺り戻しの議論が起こりました。つまり、中等教育は変わっていくけれども当初の理念通りには変わらない。不安に駆られて脆弱な理念から一気に制度改革を進めるので、すぐに批判が出て、また戻されたり、横に行ったりを繰り返す。だから、そんなに直線的に良い方向にどんどん変わっていくというイメージが、いまのところ私には湧かないのです。
もうひとつ申し上げたいのは、改革の方向性が正しかったのかどうか、振り返って検証していないのではないかということです。たとえばいま例に挙げた総合的な学習の時間が導入されて20年たちますが、その事後評価を客観的なデータで行政の誰かが確認したのでしょうか。良くなったと都合よく解釈して、どんどん進めているだけではないか。もしかするとうまくいっているのかもしれませんが、改革を推進する側が十分にリフレクションをしていないことは、大きな問題です。
2032年までに大学入試制度は変化するのか
大学入試制度は、個別試験レベルで変わっていくでしょう。実際、政府の会議でも、個別試験レベルで変えていくことを推奨しています。英語の民間試験活用や主体性評価もそうですね。共通テストで出題されるようになった対話文や、たくさんの資料を読ませる問題が頻出するなど、個別の試験ごとに出題傾向が変化していく可能性もあります。しかし、早くも報道やSNSなどでは、新たな出題傾向への批判的な意見が見られます。私自身もこうした新傾向には違和感があり、批判的コメントを出すことがありますが、そうした批判が他の多くの専門家からも出ているのを見ると、安定的、直線的にいかないのではないかと思います。
一方で、政府はやはり、入試制度を梃子にして、いろいろ変化をさせたいという気持ちはあるように思います。入試改革に政策的にインセンティブを付けるという議論はそのひとつの現れでしょう。各大学も、受験生を集めなければ大学経営に響きますので生き残りをかけて、あるいは政府の補助金などのインセンティブに突き動かされて、さまざまな入試制度変更を試みていくでしょう。
高大接続改革を社会的側面から押さえる(2/4)
高大接続の問題を考える3つのポイント
しかしながら、こうした入試制度の変化の方向性が望ましいのかというと、不安も感じています。そこで、改めて高大接続について再考してみることにしましょう。
私は、高大接続の問題を考える際に、3つのポイントを押さえるべきだと考えています。というのも、「これからの時代に必要な能力は○○である」という議論は、たくさん出てきますが、どれも根拠、エビデンスがなく、フィーリングで語られています。それを拠り所にして、いろいろ改革を行ってしまうから、その前提を問い直すような批判的議論が簡単に起こってしまうわけです。「時代に必要な能力」以前の問題として、もう少し構造的というか、社会的な側面から重要ポイントを押さえることが大切です。
1つめのポイントは「本質的困難」です。もともと高校までの普通教育と、大学の専門教育では、目的が異なります。ですから、たとえば「普通教育で学力の3要素を高めたからといって、専門教育で全部必要になるか」、あるいは「普通教育の学習指導要領で定めたことを、すべて専門教育の入試で課さなければならないか」というと、そもそもそういう構造にはなっていないし、これからもなりにくいのです。普通教育と専門教育のズレをつなぐのが入試問題なわけですが、そこを比較的ストレートにつなごうとする議論が多すぎて、辟易しているというのが、私の正直な感覚です。
2つめが教育拡大による変化です。同じ層の人たちが大学に入学してくるのなら大きな変化はなく、昔ながらの方法を継続しても問題は起こりにくい。けれども、世界的にもそうですが、高等教育が拡大して、従来は大学に来なかった層が入学するようになって、中等教育とそのあとの教育をスムーズにつなぎにくい面が生じています。そうしたいわば「時代的困難」がいま、顕在化しているわけです。
3つめは選抜構造の社会間の差異、すなわち「社会的困難」です。国や社会によって、それぞれの歴史、文化、思想の影響を受けて、中等教育と高等教育のつなぎ方は異なります。
たとえば最近、フランスで大学進学時に受けるバカロレア試験が注目されています。4時間かけて難解な哲学の小論文を、高校生が皆書いていて、驚かれています。しかし、それが可能なのは、ある種の市民教育として哲学が伝統的に重視され、中等教育で必修になっていることや、フランスは早い段階から原級留め置きの生徒がたくさん出て、卒業段階に至った生徒だけがバカロレアを受けるといった状況があるためです。同じような試験を日本で導入するのは困難です。たとえばバカロレアは卒業資格試験であり、当然、不合格の人が出ますが、日本がそれを許容する社会になるには入試を弄るだけではダメだと思います。途中で立ち止まったり出直したりすることと相性の悪い日本の雇用のシステムとも連動していますから……。
ですから、今後の入試を考える際には、バックグラウンドの社会の構造を念頭に置くことが大切です。無理やり入試だけ急激に変えても、社会構造のプレッシャーが強くて、揺り戻しが起こってしまうでしょう。
大学入試への展望(3/4)
受験生に配慮した個別入試を
私が高大接続に関してよく言っているのは、大学入試で高校教育を変えようとするのはリスクが大きいということです。「試験あるところに対策あり」で、どうしても期待している学び方とは違う形で、点数が取れるような学習をしがちになるからです。たとえば、主体性評価を入試に取り入れることは一見良さそうに見えますが、活動記録を大学に提出するとなると、評価されるために無理して活動をする、つまり非主体的活動を促進するという逆転現象があちこちで起きてしまうでしょう。
個人的には、大学入試は必要最小限のシンプルなもので良いのではないかと考えています。今回、共通テストでは2025年度入試から教科「情報」を出題することになり、しかも国立大学協会は8科目を原則として受験生に課す方針を発表しています。その意図は理解できますが、多くの受験生は共通テストだけを受けるわけではありません。国公立大学の二次試験対策をしたり、併願する私立大学の対策もしたりするなど、共通テスト以外にもやるべきことは山積みで、すでに負担は相当重くなっています。高校で必修科目だからといって、入試で必ず課さなければならないわけではありません。「必要だ」「そうあってほしい」という社会の側の理想だけを理由に入試にすべてを入れ込もうという発想は、これまでに失敗した入試改革同様、受験生への配慮に欠けるといわれても仕方のない面があります。
それから、トップダウン方式による高大接続も問題があります。入試多様化とか、多面的評価を推奨しておきながら、そのパッケージ自体がすごく画一的で、全員に多様な評価をしないといけなかったり、全員に全科目を課したり、といった話にすぐなってしまいます。実はこれは多様化ではなく、画一化なのではないかと感じてしまいます。
ですから、そんな画一的な価値観を押し付けられてやるぐらいなら、個別大学主体で高大接続を行っていくほうがまだ良いと感じます。ただし、完全な自由放任にするのではなく、今以上に倫理規定を必要とすべきかもしれません。差別につながる入試や、高校教育を無視した時期に行う入試など、絶対にやってはいけないことは規制する必要があります。また、同じ学部で10以上もの選抜方法がある大学もありますが、このような極端な多様化の推進も、そろそろ止めたほうがいいというのが、私の意見です。
まとめ
制度改革の視点から大学入試を見ると、行政が制度の線を揃えるわけですから、一定の画一性は止むを得ない面もあります。けれども、それは最小限に止め、個別大学が必要な入試を自主的に行い、改革が必要だとしてもそれは必要な範囲で漸進的に進めるべきだと思います。政府は画一的な選抜制度を押し付けないでいただきたいし、また個別大学が入試改革をしたら「改革派大学だ」といったような単純な認識が広がらないようにしてほしいと思います。急激な変化そのものが受験生には負担になるということも押さえておくべき点です。制度を弄り回すことが改革ではないのです。
中村高康(なかむら・たかやす)
東京大学大学院教育学研究科 教授。東京大学大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。博士(教育学)。専門は、教育社会学。戦後日本の教育と選抜の変容、高校生の進路に関する量・質混合調査等の研究に取り組む。文部科学省大学入試のあり方に関する検討会議(2020.6.5)では「高大接続で今考えるべきこと」を報告。主な著書に、『大学入試がわかる本』(編著、岩波書店、2020年)、『暴走する能力主義』(ちくま新書、2018年)、『現場で使える教育社会学』(共編著、ミネルヴァ書房、2021年)など。
※所属・役職は2022年3月時点のもの