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未来のマナビフェス2019 実施報告vol.10大学での学びをデザインする~初年次教育からリカレント教育までのカリキュラムと教学マネジメント~

登壇者:森朋子(関西大学)

学びをデザインしようとする時、教師や組織に対して働きかけることを通して、子どもたちの変容を促すといった間接的なアプローチがしばしばとられる。こうした働きかけ自体の意義を認めつつも、森朋子氏は、このやり方では成果までに距離があり過ぎるという点を指摘する。どんな教師が授業を行っても学習者の学びに直接、一定の効果をもたらすことができるような学びデザインはいかに構想されるのか。本セッションでは学習理論・学習研究の知見と、関西大学における学びのデザインの事例をもとに、学習者自身の学びに焦点を当てたこれからの大学の教育改革の在り方が示された。

アダプティブな学びに向けて

森 朋子(もり・ともこ)
森 朋子 先生(関西大学)

たとえば高校の数学の授業で、最初の10分ですでに内容が分からなくなってしまった生徒がいたとしよう。おそらくその生徒は、自分が授業を理解できていないことを教師や他の生徒に悟られないような振る舞いに、授業が終わるまでの残りの数十分を費やすことになるだろう。教室にいても、学びから隔たれている。こうした事態が多くの教室でひっそりと起こっている。それは大学の講義も例外ではない。理解が追いつかないままその場に「参加」している学生は少なくないと、森氏は語る。

こうした現状に鑑みれば、1対多数の講義を前提とし、マスで学習者を捉えようとするのは限界がある。認知的学習論の観点から見れば、学習は(1)主体的な行為であり、(2)知識の変容(累加、または再構造化)であり、そして(3)先行知識によって導かれるものである。「これってどうなっているの?」といった疑問から始まり(主体性)、すでに知っていること(先行知識)を手がかりにしながら、分かったつもりになっていたことを問い直すことで知識の変容が生じる。このように、先行知識が組み替えられるような体験の総体が学習なのであって、伝達された知識を「覚える」ことそれ自体は真の学習とは言えない。

以上のように学習を捉えたとき、皆が一斉にスタートを切り、同じゴールをめざす従来型の教授スタイルは乗り越えられなければならないだろう。すべての生徒を同じスタートとゴールに立たせようとすることは、先に述べられた学習の3つの要素を手放すように学習者に求めることになりかねない。翻って、真に学びを推進するためのデザインを構想するのであれば、生徒によって関心や先行知識や、問いが異なるということを前提とし、各自が手を伸ばしたら届くような各々のストレッチゴールを設ける方向へと大きく舵を切らなければならないのである。

こうした転換の先に森氏が展望するのは、アダプティブ・ラーニング(Adaptive Learning)の構想である。そして、個人の学びに着目し、そこから理論と学びのデザインを導き出すという学習研究のアプローチの強みはまさに、個々の生徒にフィット感のある学習(アダプティブ・ラーニング)の構想に極めて有効な示唆を与える点にあると言えるだろう。本セッションでは、アダプティブな学びが推進される条件をめぐる学習研究の知見と、その知見に基づいた学習のデザインの事例が惜しみなく紹介された。

「学習」から考える学びのデザイン

これからの授業での育成デザイン
これからの授業での育成デザイン

学びのデザインを考える際に、まず念頭においておきたいのは、「学力の3要素」―すなわち、(1)見える学力、(2)見えにくい学力、(3)見えない学力―のうち、従来型の授業がその育成の対象としてきたのはもっぱら1.見える学力に分類される「知識・技能」の獲得であったということである。

思考力や表現力、コミュニケーション能力などを含む2.見えにくい学力や、関心・意欲・感性・自己肯定感といった(3)見えない学力は、従来、部活やイベントにおいて育成するもの、あるいは極めてパーソナルな条件に由来するものであるとして、授業の外的な要件であるとみなされてきた。だが、とりわけ(2)見えにくい学力に関してはトレーニング可能であり、実はカリキュラム・マネジメントが効きやすい学力なのだと森氏は指摘する。また、パーソナリティや家庭環境などに大きく依拠し最も身につきにくいとされる(3)見えない学力も、探究活動によって意欲を喚起することが可能であるという。実際に関西大学では3要素のすべてを射程に含めたうえで、同大学の文化や学生がもつ特質を活かした学びのデザインの取り組みが行われている。その一つが、全学共通教育における越境学習のデザインである。

越境する学びに向けた大学教育の試み

会場の様子

13の学部を持つ総合大学である関西大学では、異なる専門性をもった学生たちが協働し、越境し、学び合う機会を設けることに重点が置かれてきた。個人が各々所属している組織を越境し他の共同体に触れることで、それまで当たり前だと思っていた価値観や知識が揺らがされ、より深い内省が生じる。こうした考えから、同大学では「異なものに積極的に関わり、己を知る」ことで、教育の内部質保証と向上がめざされているのである。

以上のような教育目標の設定に際して、その理論的な基盤の一つとして森氏が参照するのはユーリア・エンゲストロームによる垂直的学習と水平的学習の概念である。垂直的学習とは、ある分野における知識や技能に熟達し、専門性を高めていくことを志向するタイプの学習である。従来の学士教育においてはこの垂直的学習が基軸とされてきたきらいがあるだろう。

他方で、水平的学習とは、特定の領域や価値観を超えて、ものの見方や自分のあり方に変容をもたらすような学びを指す。したがって、「異化」や「越境」が水平的学習においてはとりわけ重要なキーワードとなる。教育目標を定めるにあたっては、まずもってこの垂直的学習と水平的学習とのバランスをどのように設定するのかが、大きな指針となる。

こうした観点から見るならば、関西大学の場合には、垂直的な学士課程教育に対し、共通的教育プログラムはより水平的学習に重点をおいた教育目標となっているということができるだろう。

越境的な学びに向けた取り組みは、毎回の講義のデザインにおいても徹底されている。従来大学の講義においては、学生による学習は、教員による教授の後になされるものとして配置されていた。しかし、越境的でアダプティブな学びの構想においては、大学の講義も、まず教えてから学ぶのではなく、学んでから教える場として位置づけ直してもよいのではないかと森氏は提案する。たとえば「反転授業」は、講義に先んじて学習事項について学ぶことによって、学生の「これどうなってるの?」(問いへの主体性)や「分かったつもり」(先行知識)を準備することが可能となる。続く講義を経て「分かったつもり」が「分かった」に変容するとき、講義は単なる知識の伝達の場ではなく、学習を経験する場となる。

こうした手法は、対集団の教授場面で置き去りにされてきた、主体的な学びの姿勢が持てない学習者にとって有効であるだけではなく、「吹きこぼれ」と呼ばれるボリュームゾーンより上に位置する学生にとっても有効である。予習段階でより高度な研究に触れる機会を設けることで、すべての学生にアダプティブな学びを準備することが可能となるかもしれない。学習を中心に教育を考え直していくことで、学生が自由に越境し、豊かな変容の経験を支えるために、私たちにどのような支援ができるのかが見えてくる。

セッションの終盤で、森氏はぜひ隣り合った参加者同士で名刺交換をしてほしいと促した。高校や大学、企業といった、普段は異なる環境に身を置く者たちの間で互いに言葉を交わし合うことから、越境する学びは始まる。2日間のマナビフェスが閉幕した後にも参加者の学びが続いていくようにとの願いとともにセッションは締めくくられた。


※本文中の所属・役職などは開催当時のもの

※このページは日本教育研究イノベーションセンター(JCERI)によって制作されました。

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